住職語り 『面白の島の四方山話』

全国に広がった"竹生島"

東京にある竹生島

七福神の一人である弁天様ですが、その七福神への信仰は江戸時代に大変盛んになりました。そこに尽力したのが比叡山のお坊さんである天海です。天海は東京の上野公園内にある天台宗のお寺、寛永寺をつくった人です。天海は徳川家康が江戸に都を移す際、上野山一帯を江戸の町の鬼門封じのスポットとして、京都の町に似せたまちをつくりました。東にある比叡山延暦寺として東叡山寛永寺を建立、不忍池(しのばずのいけ)を琵琶湖に、上野山を比叡山に見立てます。その不忍池には竹生島になぞらえた弁天島を築き、ここに宝厳寺に見立てた不忍池弁天堂を建立しました。こうして弁天様は福徳の神ということで、江戸庶民の中に広まっていきました。

東京の不忍池にある寛永寺

竹生島と月とうさぎ

江戸時代前期の元禄時代(1688年~1704年)は、経済活動が盛んで芸術文化においても華やかな時代で、能楽は幕府が武家の式楽としたことから発展しました。そんな時代において竹生島を背景とした湖水の風光明媚なさまは、江戸庶民からも称賛され、能の中で「竹生島」が語り継がれるようになりました。その「竹生島」に「緑樹影沈んで、魚木に上る気色あり、月海上に浮かんでは、兎も波を走るか、面白の島の気色や。」という語りがあります。波の白いしぶきが兎に見え、月から兎がおりてきているように見える、と語っているのです。
 また、その状況は竹生島の御詠歌でも語られ多くの人に知られています。「月も日も 波間に浮かぶ 竹生島 船に宝を 積むここちして」(西国三十三寺御詠歌/第30番)。お月さんに島影があって、そこには女神がいて、だからここは宝の島、宝船のようですよ、と歌っています。前者の能の一節は、後に波兎の模様がつくられました。今でも手ぬぐいや湯のみなど、いろんな染めの絵柄で見られます。名古屋の徳川美術館では徳川家康公着用の「萌黄地葵紋波兎文辻ヶ花染羽織」として復元されています。家康も波兎の模様を好んだのでしょうか。