住職語り 『面白の島の四方山話』

清い心の弁天様

弁天様と水とのつながり

弁天さんは芸能の神様なので、竹生島にも芸事をされている芸子さんや舞子さんも多くお参りに来られています。 ですから七福神の絵では楽器を持っている弁天様が一般的ですが、本来の弁天様は八本手に武器を持っていて、これが本当の姿です。弁天様はインドから伝わった神様です。アーリア人という北インドの遊牧民の信仰の神であることが、リグヴェーダ(聖典書の一つ)という古い教典に弁才天のことが書かれています。そして、オアシスを生活の場としている遊牧民は水が非常に大事であること。弁天様が水をイメージとするのは、全ての生命は水から生まれ、そこで育くまれるからなのです。フランス語の名詞に性別があるように、ヒンディー語でも名詞には性別があり、「水」は女性名詞です。そういうことからも水に関わるのは女性とされているのです。

弁才天坐像

弁天様のような慈母的愛に福が来る

信州善光寺には「お戒壇巡り」と呼ばれるお参りがあります。別名「胎内巡り」と言い、仏様のお腹を巡って出て来ることを意味し、そうすることにより真っ白な汚れのない自分になること、すなわち「再生」を意味しています。

お腹を巡って体外に生まれ出るということは、もちろん「赤ちゃん」に通じています。 「赤ちゃん」の「赤」には、「(夜が)明け、朝になって太陽が昇る」からくる「純粋で汚れの無い」「生まれたて」「始まり」のイメージや、「赤の他人」「真っ赤な嘘」のように「何も無い、全く無い」という意味で使われることがあります。また、「赤」の語源は、仏前に供える浄水を意味するサンスクリット語「アルガ」にあり、それに漢字を充てると「閼伽(あか)」、さらに英語に転じて「aqua(=アクァ)」につながるという説があります。

生まれたての赤ちゃんの体を清潔に保つためベビーバスなどで洗ってあげることを「沐浴」と言いますが、本来「沐浴」とはからだを水で洗い清めることを指し、宗教的には、水が持っている「移行」と「融合」の象徴的意味、つまり、身体全体またはその一部を水に触れさせることにより、俗的状態(汚れ)から聖なる清浄な状態へ、あるいは、死の状態から生の状態へ移行させるものとして用いられます。

「赤ちゃん」はお母さんの胎内から生まれ出ると「水」で洗い清められ、無垢で汚れのない、尊い存在として在るのです。まさに「子は宝」なのです。

人間の「始まり」であり「水」によって洗い清められる「赤ちゃん」と、聖なる川の化身「サラスヴァティー」が仏教に取り込まれたかたちで「水」と強く結びつく「弁天様」。その間には、「水」、そして「慈母的愛」が介在しているといえるのではないでしょうか。

弁天様は「弁財天」と書いて商売繁盛・財福の神様としても信仰されていますが、弁天様が分け隔てなくあまねく人に財をもたらしてくれるものと解釈すべきではありません。 財を成すには、己の損得勘定だけで商売をするのではなく、相手や周囲にも気を配り、誠実さをもって商売に勤しむことが必要ではないでしょうか。
母が子に対して注ぐ無償の愛、すなわち慈母愛にも似た清い心をもって誠実に商売に勤しめば、自ずと福が来るということを、弁天様のお姿の中に読み取っていただければ幸いです。

弁天様の幸せ願いダルマ

清く正しく美しく

『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』の「大弁才天女品 第十五」が弁才天の本当のお経です。この最勝経は、国王たるものが最初に勉強するお経で、これを広め、また読誦して正しく国王が施政すれば、国は豊かになると言われていました。ですから、聖武天皇は『金光明最勝王経』を全国に配布し、また、741年(天平13年)には全国に国分寺を建立しています。そのお経の内容とは。インドでは「水は人をつくる」と説いていて、水を神格化したものとも言われています。王たるものは「清く、正しく、美しく。」こういう心根でないといけない、ということなのです。