住職語り 『面白の島の四方山話』

女性たちの島

浅井姫命の話

滋賀県の『近江国風土記』の中に「山の背比べ」という近江の昔話があります。夷服(伊吹)の山と浅井岳が背比べをしました。そこで負けた夷服山の神が怒って浅井岳の首を切り落としました。それが琵琶湖に落ちて竹生島になったというお話です。浅井岳の神様というのは浅井の氏神の姫のことをいいます。
首がなぜ島になるという伝説となったのか?それは浅井の人たちが自分たちの信仰を島に残したかったからです。浅井姫と深く関わる浅井の地の人々は、信仰の対象として女性の仏様を必要としました。その仏様が弁天様だったのです。ここで多くの人が疑問に思う「弁天様は七福神での紅一点の神では?」。まさに、宝船の絵が頭に浮かびますが、実は弁天様は『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』という仏教経典に説かれた仏様なのです。ですから弁天様はこの浅井の地に信仰の対象として根付くことになり、竹生島は日本で最初に弁才天信仰が根付いた島となりました。

能の「竹生島」に忍ぶ女仏の島

竹生島は明治時代までは女人禁制の島でした。なのになぜ女性たちの信仰の島とされているのか?そこを紐解いていきましょう。能の「竹生島」に出て来るお話です。朝廷の大臣たちが竹生島参詣のため琵琶湖を訪れます。そこで老人と女が乗った釣舟を見つけ同船し、竹生島へと向かいます。女人禁制であるはずの竹生島に女も一緒について来る。それを老人に問うと、竹生島は女体の弁才天を祀り、女性をお隔てにならないと返し、島の由来を臣下に語り聞かせます。そして、自分たちは人間ではないと言って女は社殿に入り、翁は水中に入って姿を消してしまうのです。その船に乗っていたのは弁天様だったのです。つまり、竹生島は女人禁制ではあるものの、女性たちを守る信仰の島であったということを、能に忍ばせているのです。

竹生島を守り尽くした寧々(ねね)

宝厳寺の復興に貢献!
宝厳寺が火災で焼けた(永楽元年/1558年)後、復興させたのは秀吉ではなく寧々でした。 秀吉の家族や家臣たちによる寺への寄進記録『竹生島奉加帳』というのがありますが、そこには寧々が、城内で女性たちから寄付を集めて、竹生島の復興を助けたことが分かる記録があります。『竹生島奉加帳』の見返しには記帳の書式とは異なるかたちで秀吉の記述がありますが、おそらくそれは、寧々が秀吉を気遣い記録を書きためていった過程で書き足されたものであろうということが容易に推測されます。竹生島は女人禁制であったため、寧々は直接竹生島に来てはいませんが、寧々や茶々や初、江の浅井三姉妹など、多くの女性たちが弁天さんを深く信仰し、守ってきたのです。

「竹生島奉加帳」(重要文化財)

大阪城の極楽橋移築に貢献!
秀頼は大阪城の極楽橋の移築に貢献しましたが、秀頼は実質7歳なので、茶々(淀殿)がその意思決定に大きな影響力を持っていたことになります。しかし、秀頼側には力はなく実際には家康が命令を出しています(豊国廟の極楽門を島に移すとした日記に徳川家康の命令を指す「内府より」の記述があります)。では誰が家康にものを言えるか、というと、それは寧々しかいません。
戦国の動乱の時代、女性の役割、立場は強かったことが、この竹生島においても伺い知ることができます。